新旧訳聖書を同時に読むの企画をして
日本で教養としての聖書の企画はむつかしい。
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カルチャーセンターで教養として聖書の講座を神父や牧師、聖書学者が開催しているが、敷居が高い。宗教への嫌悪感、キリストへの忌避観
もあるのだろう。
ミッションスクール、小中高大の聖書の講座も対象者にどこまで伝わっているのだろうなにが心にの残っているのだろうか。曾野綾子や遠藤
周作がエッセイや小説で書き記し、売れている。それは本質が伝えているのか、商業ベ-スのマ-ケッテングで変質しているのか。恐らく入り
混じりであり、曾野綾子や遠藤周作は計算ずくで、両氏は役割分担すらしていたと思う。
やさしいイエスのあたたかさが伝わつたのだろうかそれは私の的外れな願望なのだろう。
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新旧訳聖書を同時に読む
それは、世界と人間の形成の時間の流れにたつこと。宇宙と自然と人と社会と歴史と心のつなぎ目、境界線を感じることなのだと思う
宇宙と数字、化学は境界がなかった。薬学と植物学の区別もなく、化学と医学、絵画、建築も美術も境界がなく、芸術家、画家と建築家と大
工の区別もなかった。神学と哲学は言葉ですべてを繋いだともいえるし、殺し続けたとも言える。新旧訳聖書を同時に読む人はひとそれぞれ立
ち位置を感じ、考え、イメ-ジを味わえばいいのだと思う。
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人は、苦しみ、考え、結果を待ち望む。その過程で、言葉は心の中で組み立てられる。無意識の言葉、世界の形成される規範と絡み合いなが
ら、その奥に見える何かを感じながら。心理、精神医学、哲学、社会学、宗教は入り混じり、それぞれ再形成される。
しるし、再臨、奇跡をうまく説明できるだろうか。それぞれの時代の苦しみと涙、そこにあるイエスの眼差しを思い浮かべて話してみたい。