私の名によって集まるところには私もその中にいる

私の名によって集まるところには私もその中にいる

今日の福音。私はこれを聞くたびに自分の罪に苦しくなる、一番苦手で、そして大切なところ。

何度誤りをし、自分がどの中にいるのか見失ってきたか。

この福音が読まれる前に、パウロのローマ人への手紙を自分が教会で読むことになった。

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エゼキエル書

悪人にその道から、離れないように語れらないなら、血の責任を求められる。忠告したなら、悪人は死に、忠告したものは救われる

私は、どちらの立場でも当てはまり、責められるようで苦しい。

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そのあと、私は朗読台で淡々と読む。結果として旧訳と福音を結び付け、自分と会衆に語りかける。会衆の中に言葉が鳩のように

放たれる。

パウロのローマ人への手紙、

 隣人を自分のように愛しなさい、愛は律法を全うするものです。

 ふと思う、ここで自分を責める律法の意味が変わる。

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マタイによる福音書

でも、まず罪を犯した者に忠告をし、聞き入れないなら、他の人ともに忠告するように求められる

だが、エゼキエル書の悪人と忠告しないものを責めるニュアンスは消える。

この移り変わりが、神の眼差しに感じられる。神が私を含め多くの人生を見守るかのように。点が線に面に代わる。

 二人三人私の名によって集まるところには私もその中にいる

 で締められる。

私はこれを今日聞いても、自分の罪に苦しくなる。だけれど、この箇所の意味が、私の中で世界の中で変わる。そしてこれからも

主はおられる