主よ醜悪なる我が目を清めたまえ

 主よ醜悪なる我が目を清めたまえ

 目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(1コリント12:21〜27)

 近代民主主義や哲学に疲れ、離げ出し、考えることを放棄し、国、民族、保守的に回帰し臆面もなく自分を弁護し、人をつぶす。最も醜悪で私が最も唾棄し敵と思う存在と思ってきた。政治家も哲学者、文学者、似非インテリ。だけれど私がそうなりつつある。

 百科事典をめくり、都合の良い部分を切りとり、並べる。そして、反論は許さず、権力に頼り、人を圧し潰す。東西の思想知識を羅列した京都学派の主導した、近代の超克は大東亜共栄圏構想のお先棒担ぎの終わる。むしろ当時実務を担う官僚が作った国体の本義のほうが、思考している。日本の文献を古代から近代まで見て、文化受容の歴史と功罪を押さえて、ファシズムをそのまま日本に取り入れることの限界すら指摘している。最後は天皇肯定に至るも過程が違う、つぎはぎの西洋批判と本質に向かう蠢き動き、総合的な統合の違いがある。

##############################################################
 
 私は、古代から現代までの哲学に取りつかれた。しかし今、疲れた。学生時代、洗礼前後、その後何十年も。批判的に考察し、壊すことで、自由に感じ、時代の移り変わりとともに、新しい世界,知識 を感じてきた。が、私はなにを見てきた、してきたのだろう。普通では会えなかった人々友人を得、見る事の出来なかった地域を見ることができた。しかし、すこしでも貧困や抑圧を減らそうとした思いは形にならず、その方策も暗中模索であがく日々に疲れてきた。批判ばかりで道の方向が見えないから道が作れない、どこに涙と血が流れているか見えずにいるのに、蜃気楼のように現れる新しい問い直しという批判的哲学の思考と、創作、デザイン、イノベーションという泡のようなものに翻弄される。
 
 批判的な考察とあとがきにのみわずかに今後の道の視点が書かれる、哲学、社会科学の本、網羅的に並べる施政方針演説、自治体の総合的計画、経営計画。SNSのデザイン。どこに涙と血が流れているか見ようとしなければ、涙と血が流れている止血を止める意思がなければ、統合の意思と信仰がなければそれらは害悪それらは悪の卵となる。

 神学と哲学は綱引きをしない限り、腐る。同じように、文学も政治も、経済もほかの分野全て。

############################################################

 主よ醜悪なる我が目を清めたまえ

 目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできない