受難の季節に思う
ふたたび会える形を変えて
点から線、世界は変わる
痛みは消えなくても歩いていける
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聖書を学んで、教会に行き、ミサを受けても、病気は治らない。でも、病気とともに生きることはできる。
病気が直らなくても不幸せとは限らない。残酷の中に
それを見つめることに光がある。
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イエスの弟子たちは、肉体をもったイエスに再会することは、なかったのだと思う。
彼らを待っていたのはさらに酷い弾圧と苦しみだった。むしろ彼らの体はかえって痛めつけられる。でも弟子たちは世界に拡散して増え続け、今に至る。
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教会で唱える祈りの言葉
体の復活を信じます。
その体の意味はもっと広いのだと今は私は思う。直接、触れたい包み込まれたいと思うえばば思うほど、病気を直したいと思えば思うほど大切なものは見えなくなってゆく。
無論、頭を撫でたり、抱きしめられたい、苦しみから逃れたいのは人ののさがとしても
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体は点として肉体として存在するのではない。
心の中、そして
外
そして点と点が線となり面となり立体化となる。
過去と今、未来がつながり
世界を見つめ、読み変えつづけることができる
自分の病気が直らなくても
体は痛め付けられても、直接抱きしめられなくても
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点から線、立体となり時間を超えて世界は変わる。
痛みは消えなくても歩いていける、直接出会えなくても
出会える。
私はそれを信じる。