聖書と私
聖書と私
大学で法律を学び始めたころ、その奥にある経済や哲学、そして歴史をたどるのが面白かった。いつしか法律を学ぶことは、聖書を読む事と
にていると思うようになり、毎日、聖書と神学大全と法律を同時に読んでいた。
学生時代は神を信じることはなかった。神は抑圧し、奪う方に、位置し、そのように神が作られている。そこに頼るのは抑圧に加担することだ
と。
聖書から見える感じる臭いは幼い故郷の風のように感じることもなくはなかったが、封印することが。人の道だと思っていた。それは見えな
くなることだと思つていた。
それまで時々、プロテスタントの人に話しかけられたが、その素直な熱のこもった少年少女を相手にすることはなかった。今からすると
もう少し話を聞けば良かった。そこに求めていた人の繋がり、強さ、世界があったのではなかったかと思う。
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私は、強さを求めて、武器を求めて、神を否定しようとした。そこに人の本当の意志と、思いやりがあると思っていた。
ある時、そんな私に、聖書は意味を変えて現れた。青年時代の私なら、その意味を雄弁に語るだろう。絶望とか無力とか神の出会い
とか。一言で語れるものではない。だた聖書はそこにある。意志の意味は今もわからない。ただ神を信じる意志だけは自分には少しある